戦争体験聞き取り調査

KANAGAWA SOKA YOUTH戦争体験聞き取り調査Experience 01
Experience 01

1945年5月29日
横浜大空襲を語る
黒焦げになったランドセル

大川 美智子さん(藤沢市在住)

私は横浜市中区に生まれ、父は通信事業を守る国家公務員だったため、戦地に赴くことはありませんでした。

昭和20年(1945年)5月29日の横浜大空襲を経験したのは、5歳のころだったと思います。その日、B29やP51戦闘機が約600機も飛んできて、横浜の空を埋めました。空襲警報が鳴り、母は背中に妹を背負い、両手には荷物を持っていたため、私は母のもんぺをつかみながら、必死に走って防空壕へと逃げました。それまでは警報が鳴ると、家の畳の下に作った防空壕に逃げていましたが、この時は戦争の激化に備えて、近所のお母さんたちが小学校の裏山に作った防空壕に避難したのです。

私が「早く家に帰りたいな」と思っていると、外から、けたたましい爆撃音と飛行機が急降下するような音が。そのうち、煙のにおいが充満してきました。

爆撃音が少し落ち着くと、外の様子を見に出た大人が「髙木さん(大川さんの旧姓)の家に焼夷弾が落ちた!」と叫びましたが、空襲が完全に終わるまで怖くて出られませんでした。空襲が終わって防空壕を出ると、燃えている家が何十軒もあり、煙は町中に立ち込めて、破裂した水道管からは水が噴き出していました。町は、一瞬にして廃墟のような姿に変わり果ててしまったのです。わが家も全焼し、何も残っていませんでした。

実は当時、自宅の床下の防空壕には、これから物資が不足して買えなくなるだろうからと、叔父が買ってくれた赤いランドセルをしまっていました。背負う日を楽しみに、大事にしていたランドセルは、形を保ったまま、真っ黒焦げに。その時の悲しみは、今も忘れません。

そして戦後へ

その後、父方の実家に家族全員で疎開。しかし、疎開先での暮らしは、つらいものでした。同年代の子どもたちから「疎開っ子」「生意気だ」などといじめられ、母が作ってくれた弁当をひっくり返されたことも。そんな状態で疎開先では、あまり学校に通うことができませんでした。

しばらくして、横浜市西区に移り住みました。この時は物資や食料が不足していたため、栄養失調になり、失明をしかけました。母と毎日のように、窓ガラスが割れたままの電車に乗り、東京の飯田橋にある病院まで通院したのを覚えています。  その後も目が不自由だったこともあり、小学4年生まで満足に学校に通うこともできず、勉強できなかったことが今でも悔やまれます。

いま想うこと

この頃は、一家の大黒柱を失った多くの家庭では、子どもが貴重な働き手だった時代です。学校に行きたくても行けない人がたくさんいました。現在、誰もが学校で学べる環境があるのは、とても幸せなことだと思います。戦争自体は、数年の間の出来事でしたが、その時代を生きた私たちにとっては、終わりの見えない、とてつもなく長い年月でした。二度と悲劇を繰り返さないためにも、「平和」を絶対に守っていかなければならないと、強く強く感じています。