戦争体験聞き取り調査

KANAGAWA SOKA YOUTH戦争体験聞き取り調査Experience 02
Experience 02

1945年8月9日
長崎の原爆投下を語る
皮膚がただれた2人の親戚

森田 喜久雄さん(相模原市在住)

昭和20年(1945年)8月9日。私は5歳の時に、長崎市の実家で被爆しました。

午前11時の少し前に、空襲警報が鳴ったのを覚えています。普段なら警報が鳴れば家の中に避難するのですが、その日はなぜかすぐには避難せず、母と一緒に自宅の庭に干していた布団をしまっていました。

するとB29が飛んできました。B29は私たちの上を通り過ぎると、何か大きな物体を落としていきました。間もなく、ドーンという大きな音とともに、爆風が私たちを襲ったのです。その爆風で家の棚にあったものは全て落ち、何が起きたのか分からない状況でした。幸い、私も家族もケガはなく無事でした。

やがて市街の方から、異様な馬の鳴き声や、何かが爆発するような音が聞こえてきました。ただ事ではないと感じ取ったようで、近所の人たちが集まり、話し合っていました。

しばらくすると、父や親戚が、市街の様子を見に行くことになりました。私の家は爆心地から12キロほど離れた山あいだったので、「何が起こったのか把握できないけれども、すぐにでも行かなければ」という雰囲気だったのだと思います。

数時間して、様子を見に行った父たちが、リヤカーを引いて帰ってきました。その荷台を見て、絶句しました。ムシロを敷いた上に、2人のいとこが乗せられていたのです。2人は一命を取り留めたものの、全身にやけどを負って皮膚が焼けただれていました。

そして戦後へ

いとこの一人は、当時、高校生。爆心地のそばで被爆しましたが、その後、80歳まで生きました。もう一人は、女学校に通っていました。やはり爆心地のそばで被爆し、粉々に吹き飛んだ建物のガラス片が、体中に突き刺さっていました。ガラス片はその後も体内に残り続け、大変に苦しんでいました。彼女は42歳で亡くなりました。

私の記憶は、実家のすぐ近くのことだけでしたが、その後、市街を見に行った父や親戚から、爆心地近くの惨状を聞きました。

――被爆した多くの人が、原爆の放射熱によって焼けた体を冷やすため、また水を飲むために、川に飛び込んだが、その人たちは全員死んでしまった。2人のいとこは、やけどをしても「水は飲むな」と言われ、その言い付けを守ったから死ななかったのだと。

原爆投下から2か月ほどすると、私の家を間借りしていた人が、爆心地近くにバラックの家を建てました。私は家族と一緒に、一度だけそこへ行きました。辺りは何もないただの焼け野原で、人はほとんどいませんでした。そこでは野菜を育てていて、食べさせてもらったトマトが、なぜか、とても甘くておいしかったことを覚えています。

いま想うこと

あれから70年以上が経ちました。息子も孫も、健康に暮らしていることが、何よりの幸せです。

後世の人たちが、私たちと同じ思いをしないためにも、私が体験した戦争の悲惨さを少しでも語り、平和の心を受け継いでいってもらいたいと思っています。