戦争体験聞き取り調査

KANAGAWA SOKA YOUTH戦争体験聞き取り調査Experience 03
Experience 03

1945年8月6日
広島の原爆投下を語る
「まさに、地獄そのもの」

髙富 広子さん(横浜市在住)

私は17歳の時、学徒動員として軍需工場で働いており、いつものように工場に向かっている最中の出来事でした。昭和20年(1945年)8月6日の午前8時15分、広島に原爆が投下されたのです。

私のいた場所は、爆心地から1・8キロ。爆風で5、6メートルは飛ばされたかと思います。建物の陰だったからか、奇跡的にやけどをしないで済みました。気付くと、近くの川は水が見えないくらい死体であふれていました。のどが渇き、水を口にしたかったのですが、とても飲める状態ではありません。

周囲には、爆発の熱で溶けて小石のようになった屋根瓦、はらわたが裂けた動物の死骸、這いながら「水、水」と叫ぶ人たちが。死体は男女の見分けがつかないほど焦げ茶色になり、まるで“木の枝”のようでした。防空壕も死体で埋まり、行き場がありません。まさに、地獄そのものでした。

家族と再会できたのは、翌日のことです。父は「もう、死んだと思っていた」と。母は頭や首、腕がただれてしまっていました。これが、やけどではなく、放射線によるものだとわかったのは、後になってからです。ケロイドに効く薬もなかったので蓮の葉を当て、着物を引き裂いて包帯代わりにしました。

実家の地下に埋めておいた、非常用の食料品などを取りに向かうと、一斗缶の中に入れておいた物は全てアメのように溶けてしまい、形がわからなくなっていました。放心状態の父が「これで人生、終わりだよ」とつぶやいた姿は、忘れられません。

そして戦後へ

戦争では、逃げる場所もなく、怖い思いをたくさんしました。枯れ果てるほど涙を流し、必死で生き永らえても、ろくに勉強もできず、楽しいことは一つもありませんでした。

絶望に打ちひしがれていたある時、75年間、草木も生えないといわれた広島の焦土に“キョウチクトウの花”が咲きました。「生きていける」――被爆して初めて「希望」が湧いてきました。キョウチクトウの花は、広島では“復興のシンボル”とされています。

その後、同じく被爆していた夫と結婚し、子どもを授かったある日のこと。恐れていたことが起こりました。「原爆症」の発症です。被爆から10年後のことでした。処方される大量の薬も気休めにしかならず、広島の原爆病院を勧められましたが、そこまで行く体力がありません。私以外の5人のきょうだいは、原爆症で命を落としていました。息子の「起き上がれなくてもいいから、生きていてほしい」との言葉に、「死んでなるものか。生きなければ」と強く思いました。

いま想うこと

私が、こうして今でも生きていること自体、本当に不思議です。被爆2世である子どもたちも元気に過ごしています。本当は「こんなつらいことは思い出したくない」とも思うけれど、この体験を語り継ぐことが“私の使命”なのだと感じています。